12月5日
叶わないんだって知ってしまってもう自分を誤魔化せなくなっている事を願い続けることは、願えていると言えるのかな。
子供のどんな願いも叶って欲しい。
クマがうちのパパを食べてくれますように、という願いでもそれが本当の子供の願いなら叶って欲しい、と思ってしまっている部分がある。
4歳の子の中にある大人の願いならば、その願いにその子が呪われればいい。
あらゆる願いが叶いますようにと願う。
希望を訴えたいのか絶望を訴えたいのか。
絶望を見て希望を願え。願え、願え、お前がどんなものになってしまっても。
叶わない願いが一つでもあることを思うと、子を儲けられる人のことが不思議になる。
あの人もこの人も、かわいそう。
君の抱き締め方を知っているのは僕だけだ。
この人もっと無茶苦茶になれば話し相手になってくれるのにな、なんて、思ったり。
もう日なた以外見たくない。ブコウスキーとか要らない。
今日、今、だけ。
誰かが自分の大切にしてるものをこれが素敵なんですよって教えてくれて、でも僕にはぴんと来なくて上手く共感出来なかった時に、僕には良く分からなかったけれど教えてもらえた事が嬉しいですし貴方と仲良くなりたいですっていう気持ちが伝わる方法があったらな。
飼い犬に服を着せて見せびらかすようなやり方ではなく毎春の軒先の燕の巣を愛でるような気持ちで、服や芸術や食べ物や明日の話を出来る人は尊いと思う。
夕焼けでも霧雨でも月光でも燕の飛翔の円弧でも、その最も美しい瞬間の為に僕の命が使われるのなら死んでもいい(死にたくないけど)と思う。そういうことの為に自分たちは生れてきたのだという気がしてしまう。というような話を日常で気負わずに出来る知り合いが欲しいな。
ギャー、僕は自分よりひどい人間には会った事ない!
死にたくないから「早く死にたい」以外のやる事を見つけよう。
昨日イオンで見た子供の願い事をいっぱい飾ったクリスマスツリーが欲しい。しかし、七夕じゃないんだから願い事というのは変ではないか?